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「百年の足音を、次の百年へ──イサミ足袋が紡ぐ“地域と伝統”の未来」

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創業118年、行田の地で歩み続けるイサミ足袋。
その原点は、名もなき一人の女性が、工場での経験を糧に独立を果たしたことから始まりました。
“最後発”の足袋メーカーとして始まりながらも、一貫工場として業界を牽引し続け、時代に応じて技術や発想を変えながら、足袋という文化を守り・壊し・再び紡いできた——。
今回の取材では、イサミ足袋が歩んできた百年の軌跡と、いま、そして未来を見据えた挑戦について伺いました。
その言葉のひとつひとつに、足袋という「道具」を超えた、日本のものづくりの奥深さと、地域へのまなざしが滲んでいました。

1「イサミ足袋のはじまりと進化:創業者の妻が拓いた118年の歩み」

創業は1907年、明治40年。当時、商売を始めた鈴木勝次郎という人物がいました。勝次郎には奥さんがいましたが、残念ながらその名前は歴史資料に残っていません。しかし、その奥さんこそが足袋事業を始めた立役者なのです。
イサミ足袋は今年で創業118年になりますが、実は足袋業界の中ではかなり遅いスタートで、「一番後発」と言っていいほどでした。
その勝次郎の奥さんは、当時、行田で最大規模の工場を誇っていた橋本工場で働いていました。この工場の創業者・橋本喜助はイサミ足袋とは直接関係ありませんが、行田で最初に一貫生産体制の工場を立ち上げた人物であり、地域の発展に大きく貢献した人物です。たとえば、行田に電気を引いたり、銀行をつくったりするなど、地域づくりにも尽力していました。
この橋本工場で働いていたのが、鈴木勝次郎の奥さんでした。彼女はのちに工場から独立し、「鈴木勝次郎商店」として足袋の商売を始めたのが、イサミ足袋のルーツです。
その後、戦時中・戦後の変動を乗り越えながら、イサミコーポレーションは繊維事業を拡大。現在では学生服が主力事業ですが、かつては婦人服、子供服、靴下など、時代に合わせて幅広い製品を手がけてきました。
しかし、創業時の「足袋」は、変わらず同社の根幹として大切にされ続けています。創業から今日に至るまで、足袋事業は受け継がれ、イサミの原点として存在し続けているのです。

2. 「なぜ行田足袋は今も残るのか?三大産地の中で生き続ける理由とは」

少し大きな話になりますが、「行田足袋」は、日本における三大足袋産地の一つであり、その中でも現在もっとも多くの事業者が残っている地域です。
かつては関西地方でも多くの足袋事業者が存在していましたが、そちらでは一部の企業が大きく成長する傾向がありました。
それに対して行田では、地域全体で産地ブランドを築き上げる「組合品」としての成り立ちが特徴的です。
つまり、行田足袋は一社だけが大きくなったのではなく、暖簾分けを繰り返しながら多くの個人商店が生まれ、それぞれが工程を分担して支え合うスタイルで発展してきました。
足袋づくりには13の工程があるといわれており、それぞれの工程を専門とする工房や商店が存在していました。
その中でも、イサミ足袋は一貫工場としてすべての工程を自社内で完結できる体制を持っていたため、東京などに営業をかけて大口の仕事を獲得し、
それを協力関係にある内職さんや地元の個人商店に分け与えていく、いわば「産地のリーディングカンパニー」としての役割を担っていました。
実は行田の足袋産業そのものが、もともとは逆境からのスタートでした。
江戸中期にはすでに足袋づくりが行われていたという記録が残っていますが、高崎線が開通した際には「鉄道の煤(すす)が白い反物や米に付着する」
といった理由で、物流拠点としての行田は敬遠され、多くの人々が都市部へ流出してしまいました。
そのような状況の中、「人を行田に呼び戻そう」という動きが生まれます。
秩父鉄道はあったものの、JR高崎線の駅までは徒歩で20〜30分もかかる場所にあり、交通の便が良いとは言えませんでした。
そのため、行田市では馬車鉄道を通したり、水路を整備したりするなど、産業と人を呼び戻すための基盤整備が行われました。
こうした“苦い経験”を乗り越えてきたからこそ、行田の足袋産業には強い仲間意識が根づいたのだと思います。

3. 「足袋は“古い”のか?時代と共に変化し続ける伝統のかたち」

時代をさかのぼると、足袋の始まりは綿ではなく、鹿革製でした。
ところが、江戸時代に大火が起こり、鹿革が「火消し隊の羽織り」に使われるようになると、足袋に回す分がなくなってしまいます。
当時は鎖国中でしたが、鹿革の多くを中国からの輸入に頼っていたとされ、それが断たれたことも原材料不足に拍車をかけました。
ちょうどその頃、日本では綿花の栽培が広まり、足袋も革から綿製へと素材がシフトしていきました。
足袋が最も売れたのは、戦時中やその直後の時期。
さらに高度経済成長期にはサラリーマンの増加とともにスーツと革靴が主流となり、和装の足袋は急激に需要が減少。以来、売上が右肩下がりになっていったというのが現実です。
その中で、足袋の素材や形も時代に合わせて変化してきました。
もともとは綿100%が主流でしたが、ポリエステルや綿ポリ混合の素材が登場し、コハゼ(足袋の金具)も次第に使われなくなっていきます。
代わりに、口ゴム仕様の簡易タイプが増え、誰でも履きやすい設計へと変化していきました。
実際、今の若い世代では「コハゼを4つ留めることができない」人も多く、上から適当に留めて、歩いているうちに剥がれてしまうという声もあります。
現在では、サイズ展開も「S・M・L」程度に簡素化され、いわば足袋が「誰でもミシン1台で作れる」ような製品へと変わってきたのです。
しかし、本来の足袋屋の技術とは、つま先の立体構造や、コハゼ取り付けに使う特殊ミシンなど、専門的で繊細な技の集積です。
そういった伝統の技術が失われつつある現状に対し、私はいま「足袋の再認識」をテーマに取り組んでいます。
多くの人にとって足袋は「古くさい」「おばあちゃんが履くもの」といったイメージがあるかもしれません。
しかし、それを「日本の良い文化」として見直すきっかけをつくりたい。そこで私は、足袋の柄や素材、デザインにも新たな工夫を加えています。
白黒だけでなくカラフルで個性的な足袋、コンセプトを持った足袋、あえて「足袋じゃないように見える足袋」などもデザインし、
若い世代にも刺さる展開を進めています。
たとえば、80代のおじいちゃん・おばあちゃんが幼い頃に履いていたような、かつての本格足袋をもう一度引っ張り出してみたり、
そうした昔ながらの技術や履き心地を現代に伝える啓蒙活動も行っています。
イサミ足袋はこれまで問屋さんへの卸売が中心で、直販にはほとんど力を入れてきませんでした。
しかし、いまでは直販で数字が見えてくるようになり、「足袋が本当に好きなユーザー」が確かに存在することもわかってきました。
これからどう進化させていくか。それが、私たち足袋屋の次なる課題だと思っています。

4. 今後、足袋という文化や技術を、どのような形で未来へつなぎたいとお考えですか?

私たちは今、「矛盾する2つの大きなテーマ」を抱えながら足袋づくりに取り組んでいます。
ひとつは、「伝統をつなぐ」という、よく語られ、ある意味では聞き飽きたようなテーマ。
しかし、その実現は今の時代、決して簡単ではありません。
例えば、阿波踊りで使われる傘も、いまや日本国内では製造されておらず、すべて海外製になってしまっている。
日本製のものは完全に消えてしまったという話も耳にします。
私たちが取り組んでいる足袋づくりも例外ではなく、人口減少・価格競争・需要の低下・後継者不足という課題に直面しています。
ですが、弊社は比較的ラッキーなことに、学生服やビジネスユニフォームなど、他の繊維事業も手がけているため、
社内の人材を足袋事業へローテーションすることで、なんとか維持できている部分もあります。技術面ではまだ継承できる余地があると思っています。
ただ、それ以上に厳しいのが「需要の減少」です。技術だけあっても、買ってくれる人がいなければ、やはり続けていくのは難しい。
そこで重要になってくるのが、既成概念を壊すこと(=2の軸)だと考えています。
最近では、「履かない足袋」という発想から足袋型キーホルダーを作ったところ、展示会などを通じて2,000個以上の注文が入るようになりました。
職人からすると「なんでキーホルダーが?」と思うかもしれません。でも、足袋屋として本当は“履く足袋”を売りたいという気持ちは強いんです。
それでも、そこにこだわり過ぎてしまうと、どんどん市場とのズレが大きくなってしまう。
だからこそ、一度頭を真っ白にして、「足袋」という“形”だけを別の視点で再解釈してみる。
そのプロセスの中で、「あれ?足袋って面白いかも」と思ってもらい、結果として“本来の足袋”に戻ってきてもらえたらいい。
つまり、「守る」と「壊す」を繰り返すことが、足袋という文化を未来へつなぐための鍵だと思っています。
ですから、今後はこの「壊す側(2)」の取り組みを、もっと加速させていかなければと感じています。

お話しを伺った方
株式会社イサミコーポレーション
常務取締役
土屋海斗氏
HP:https://www.isamicorp.co.jp/works-1-1-1-1-1-1/:slug

【編集後記】

足袋という言葉に、最初はどこか「懐かしさ」や「儀式的なもの」を連想していました。
けれど、イサミ足袋さんの話を聞くうちに、それは“履き物”という概念を超えた、地域文化や家族の営みそのものだと気づかされました。
取材後、思わず白足袋を一足購入。
手に取った瞬間の、布のやわらかさ、縫製の細やかさ、履くと足に吸い付くような立体的なつくりに、職人の技と心が宿っているのを感じました。
「足袋の文化を守ること」は、単に商品を作り続けることではなく、誰かの日常や人生の一場面を支え続けることなのだと。
これからもまた、あの白足袋を履いてみたい。そんな気持ちになっています。

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